赤嶺隆(AKAMINE Takashi)さんと初めて逢ったのは、僕がロンドンのコベントガーデンで、三味線を弾いていた時だ。
小雨が当たるのを肌に感じて弾くのを止め、目を開け三味線を片付け建物の下に入った時、声を掛けてくれたのが彼だった。1984年4月15日・日曜、お昼過ぎ‥‥‥
「鼓童の方ですか‥‥‥」と。
この時鼓童は、同じコベントガーデンにある劇場(Theatre Royal Drury Lane)で公演中だったが、この日は中日の休日。
沖縄出身の赤嶺さんは、那覇で鼓童公演を初めて見たという、勿論今回のロンドン公演にも来たという留学生。
話が弾んでその後なぜか、彼の彼女の家へ行きミルクティーとビスケットを戴き、そこでも話し続ける。
物静かで控えめだが笑顔がとても人懐こい、つい気を許してしまって話し込んだ、あの少し肌寒かった、でも心は温まった春の一日。
彼は25歳で、僕は27歳だった。
それが翌年85年9月のロンドン公演では劇場楽屋にやって来て、「実は鼓童に入りたいのです」と告げ、本当に86年、佐渡にやって来た。
それから彼は主に海外ツアーのマネージャーとしてなくてはならない存在となっていくのだけれど、僕は89年の8月に鼓童を離れる。
赤嶺くんと過ごした時間は、そんなに長くはなかったけれど、とても濃厚な日々を過ごしたと思う。
その後、2002年10月ロンドンで再会したり、佐渡でも偶然に何度も会って、その度話し込んだ。
会えると心にパッと花が咲いたような気分になる。
その後、2002年10月ロンドンで再会したり、佐渡でも偶然に何度も会って、その度話し込んだ。
会えると心にパッと花が咲いたような気分になる。
マネージャーとしてプレイヤーを支えるのは当然のことだけれど、それよりも個人的にいつも支えてくれていたと思う。
それは僕だけではなく、どの人にとってもではなかったろうか‥‥‥そんな、いつもどこまでも優しい人だった。
それは僕だけではなく、どの人にとってもではなかったろうか‥‥‥そんな、いつもどこまでも優しい人だった。
赤嶺くん、ありがとう‥‥‥
合掌
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/前列右から二人目
(撮影者不明)