2024年7月4日木曜日

【 鼓童 KODO One Earth Tour 1984 旅の始まり ③ 】撮影/富田和明

 【 鼓童 KODO One Earth Tour 1984 旅の始まり ③ 】



1984年、1月30日(月)旧暦12月28日

広州での公演は日本出国前に決まっていたが、決まったのが遅かったので、ホテルは押さえられても、香港から広州に向かう列車のチケットが取れなかった(なんせ旧正月三日前のチケットは、三週間前から完売していたらしい)。

日本領事館の人でも用意できなかったものを、それでもハンチョウ(河内敏夫・鼓童創立代表)が「僕が香港に行けばなんとかなりますから」と言って、そして本当にその言葉通り、どこでどう捜したのか15枚のチケットをハンチョウは手に入れてきたのが昨日の話。

それが公演の二日前で、やっと、現実に広州公演が決定した。
領事館の人曰く、この時期にチケットを手に入れられたのは「香港の奇跡」だと。
※言い方は大袈裟だが、領事館の人も公演の準備はするけど内心「来るのはとても無理ではないか」と思っていたらしい。



ハンチョウは、この数年前(まだ個人の日本人に観光ビザがおりなかった時代)にも、香港の中国領事館で「私は日本に住む華僑で里帰りがしたい」と説得して特別ビザを手に入れ中国に入国した人物。
「どうしても中国で鼓童公演を実現させたい」というハンチョウの熱き一念がこの壁を突破させたのだろう。

とは言え、そんな事情はよく分かっていない(当時の旅はいつもこんな調子だったので)僕たちは、香港九龍15:55発広州行、超満員の特急列車に乗り込んで、18:40広州駅に到着した。



駅近くにある東方賓館というドデカいホテル(部屋数約700)に泊まる。




1枚目/1984年、1月30日(月)広州・東方賓館(Dong Fang Hotel )の部屋にて

齊藤栄一







2枚目/1984年、1月30日(月)広州・東方賓館(Dong Fang Hotel )食堂にて
夕食後何やら服務員に説明しているハンチョウ(河内敏夫)とジョン(Johnny Wales)、二人は中国語を少し話せた。



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1984年、1月31日(火)旧暦12月29日 広州・友誼劇場公演




3枚目/1984年、1月31日(火)広州・東方賓館(Dong Fang Hotel)中庭?にて
田尻洋





4枚目/1984年、1月31日(火)友誼劇場正面玄関
1965年に建てられた劇場(キャパ1,560)







5枚目/1984年、1月31日(火)友誼劇場
客席から舞台を見る





6枚目/1984年、1月31日(火)友誼劇場
舞台から客席を見る






7枚目/1984年、1月31日(火)友誼劇場
ロビーで新春の飾り付け





8枚目/1984年、1月31日(火)友誼劇場
ロビーに貼ってあった公演告知張り紙
『日本鼓童楽団、歌舞晩会』
チケットは、1元、8角、6角
※1元=約110円



仕込みからリハまでの間、少し時間があったので劇場前の路上で三味線を弾くが興味をまったく示されない。
他国であればすぐに人が集まったり、好奇の目で見られるのが、それがない。

何か自分の生活のことにしか目にない感じだ(そのことだけで精一杯なのだろう)。


※この頃は、文化大革命が終わってまだ改革路線に転じたばかり
人通りは絶えない場所だが、ほとんどが無視。立ち止まる人もいない(演奏に魅力がなかっただけかもしれないが)。

そう思えば劇場の楽屋係の女性にしろ、やるだけやったら後は全く無関心、サービス業に関する事は総て無礼と思わざるを得ない態度で、
大雑把で荒っぽい、笑顔を返してくれる人など、僕が見た限りほぼ皆無。
買い物に行くと、まずお店の人に嫌な顔をされ、怒られている感じがしてしまう。
街を歩けば何組もの乞食に袖を引っ張られ、お金を無心された。



TV局が公演を三台のカメラで録画中継に来たが、これまたつまらなさそうな顔をしていて「やる気がないんなら、来るな!」と怒りたくなった。



急に決まった公演で人が来るのかと心配したが、500人ほどの人が客席を埋めた。
ところが公演の、入破(じゅは)から始まりモノクロームで終わる第一部、
客席がうるさい。絶えず喋っている。受け入れられないのか、興味がないようなのだ。
一般の公演でこんなに賑やかというか、無視されているのは初めての経験。



一部と二部の間の休憩時間で楽屋に戻っていると、何だか客席が盛り上がっている声が聞こえ、見に行くと、
TV局の人が持ち込んでいるモニターTVで、ボリューム一杯上げ、正月特別番組なのかカンフー大会?中継を客席で見ている。
お客さんもこれには興味津々な目付きで見入り何度も歓声を上げていた。

呆れて「これは、なんちゅうとこや‥‥‥?」と言っていると、
山ちゃん(山口幹文)から「日本の尺度で考えると逆に失礼だよ、ここは中国なんだから」と窘められる。

二部が始まって、千里馬、御陣乗、綾子舞、そして大太鼓とやっていると、やっと静かになってきた。
そして屋台囃子。

客席が水を打ったように静かだった。
ああやっぱり最後には興味を持って見てくれたんだなと思い、立ち上がってお辞儀をすると、
それまで暗かった客席が少し明るくなって客席が見えた。



静かなはずだ、お客さんの姿が消えていた。
ほとんど帰って客席からいなくなっていたからだ。

思わず笑ってしまう。
アンコールもなく、何人かの日本人の方だけが一生懸命拍手してくれている音が耳に届いた。



楽屋に戻って、山ちゃん(山口幹文)曰く「自分達の音楽理解を超えていたんじゃないの?」
克ちゃん(近藤克次)曰く「こっちの人は自分達も舞台に参加できて、一緒に楽しめるものでないとダメじゃないの?」
領事館の人曰く「はっきり言って、皆さんの音楽は欧米諸国ではウケるでしょうが、ここでは難しい。今は電気音楽に目が向かっている」

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※劇場のロビーに貼られていた告知の紙には『日本鼓童楽団、歌舞晩会』とあった。

このタイトルだけ見ると、たぶん当時の中国の方々がイメージするのは、まず司会者が出てきて音楽の紹介があり、華々しく歌と踊りのショーが始まる、かわいい子供たちも沢山登場してきて太鼓を叩く、そんな楽しい音楽会ではなかっただろうか。
それが実際にはどうだ?

一切の説明もなく理解不能なものが突然に始まる(石井眞木さんの入破を悪く言っているのではなく)これが音楽なのか?楽しいのか?と‥‥‥

今回は告知もままならぬ、とにかく「中国で公演を打つ」ということが一番の目的であったので、仕方がないことだ。


一回の広州公演だけで結論を出すのはいけないが、この(当時の)中国では無理だと思った。

演目の変更もせず、台湾、香港、広州とまったく同じ公演内容にしたのは、演出のハンチョウ(河内敏夫)の考えだ。
同じ中華圏内であっても、こうも反応が違う。

僕は非常に腹立たしく、そしてまた興味が沸々と体に湧き上がって来ているのを感じた。
この一日の体験が、後日の僕の中国留学に繋がったのは間違いない。



公演が終わってから、これまた夜遅くまで掛かって、荷物のパッキングをする。

ここまで一緒に旅をした太鼓道具たちは、僕たちよりも一足先に日本へ帰る。
次の公演地・イタリア(ローマ)には、昨年末に船便で出航した太鼓たちが待っている筈だ。


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1984年、2月1日(水)旧暦12月30日・大晦日



旅に出て初めての一日休み。

広州の街を探索して、夜は中国文化局、日本領事館、中国旅行社の方々と打ち上げ。
本来ならこの日は、一年の中で一番家族と楽しく過ごす年越しの時間だと思うけれど、皆さん集まって下さり宴会。
さすが「食は広州にあり」の諺(ことわざ)通り?犬、鳩、ナメコ、水母、豚の丸焼きなどを頂く。




9枚目/1984年、2月1日(水)旧暦12月30日 広州・東方賓館にて
近藤克次、風間正文、十河伸一、齊藤栄一、大井良明






10枚目/1984年、2月1日(水)旧暦12月30日 広州・東方賓館にて
河内敏夫‥‥‥






11枚目/1984年、2月1日(水)旧暦12月30日 広州・東方賓館にて
風間正文、十河伸一、齊藤栄一、小島千絵子








12枚目、13枚目/1984年、2月1日(水)旧暦12月30日 広州・東方賓館にて
豚の丸焼き






14枚目/1984年、2月1日(水)旧暦12月30日 広州・東方賓館にて
大井良明、平沼仁一、Johnny Wales






15枚目/1984年、2月1日(水)旧暦12月30日 広州・東方賓館にて
河内敏夫‥‥‥風間正文、十河伸一、齊藤栄一










16枚目、17枚目/1984年、2月1日(水)旧暦12月30日 広州・東方賓館にて
風間正文、十河伸一、齊藤栄一、小島千絵子




※写真上の名前は左から、敬称略
撮影/富田和明



【 鼓童 KODO One Earth Tour 1984 旅の始まり ④ おわり 】へ続く






富田和明 TOMIDA Kazuaki
/打組 UCHIGUMI/太鼓アイランド TAIKO Island
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utigumi@tomida-net.com
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富田和明 太鼓チャンネル
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